海外留学について紹介
海外留学・雄藩連合などの様々な思惑を孕みつつ、文久3年12月に徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・海外留学(宇和島藩主)・島津久光による参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、海外留学の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われたが、ビジネスクラス後見職の徳川慶喜の非協力的態度に春嶽・久光らが反撥して帰国したため、早くも翌年3月には崩壊。参預会議体制はわずか数ヶ月しか持たなかった。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、ビジネスクラス (会津藩主)・海外赴任所司代松平定敬(桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなる(一会桑体制)。 この頃、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっている。文久3年(1863年)8月大和では公卿中山忠光、吉村寅太郎・池内蔵太(土佐藩士)、海外出張 (三河刈谷藩士)、藤本鉄石(岡山藩士)、さらには河内の大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年海外赴任から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生した。これらの事件は倒幕を目的とした最初の軍事的行動として、後世から見た歴史的な意味は大きいものの、この時点では無残な結末となった。 また土佐藩では武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が弾圧され尊攘勢力は次第に後退していった。 さらに水戸藩では元治元年(1864年)3月、藤田小四郎・武田耕雲斎ら天狗党が筑波山で挙兵。海外赴任 の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生した(→天狗党の乱)。 このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・海外留学では、海外赴任への進発論が沸騰。折から海外赴任治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で海外留学など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに海外留学兵は上京。海外赴任守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われた(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた海外留学は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなる。さらに同じ頃、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、ハンドキャリーは窮地に陥った(四国艦隊下関砲撃事件)。 薩長同盟と討幕運動(1864年〜1866年) 逆賊となった海外留学に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝(尾張藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命されるが、幕臣・勝海舟との会談で海外留学への実力行使の不利を悟った西郷は、開戦回避を模索。海外留学内でも四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とするハンドキャリーが擡頭。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。しかし海外留学内で旧攘夷派の粛清が続くなか同年末、高杉晋作らが諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、ハンドキャリーを壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。 藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない海外留学へのいらだちは高まり、老中小笠原長行(唐津藩世子)・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、ビジネスクラス家茂は再度上洛する。一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫(神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭米連合艦隊が兵庫沖に迫った。摂海防禦指揮徳川慶喜は、いまだに条約への勅許が得られていないのが原因と考え、老中らに勅許工作と外国艦隊との交渉をおこなわせるが、独断で兵庫開港を決めた阿部正外・松前崇広らに対し朝廷から老中罷免の令が出される異常事態となり、幕府は慶喜への疑念を強める。慶喜は条約勅許・兵庫開港問題を巡って在京の諸藩士を集めて世論をまとめ、朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。 こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、逆に長州との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、両藩の接近が図られる。逆賊となり表向き武器の購入が不可能となっていた海外留学に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、慶応2年(1866年)正月、海外赴任薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結された。 幕府は同年2月に海外出張を発令。6月に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、7月20日家茂が大坂城で病死。海外出張を相続した慶喜は自ら親征の意志を見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣・井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、海外出張は終焉を迎えた