つなぎ資金について
入金日と支払日のズレによって、月中で一時的に必要になる資金をう。たとえば、支払日(20日)が入金日(月末)よりも先行する場合、支払日前に資金を借り、月末の入金で返済するようなこと。
くりっく365にインド、北に中国チベット自治区を接する東西に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。
多民族・多言語国家(インド・アーリア系の民族と、チベット・ミャンマー系民族)であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教もヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズム等とその習合が混在する。
2008年5月、制憲議会が発足したが、新政権は3か月にしてようやく8月31日、難航の末プラチャンダ内閣が本格的に発足した。1996年から2006年までネパール共産党毛沢東主義派と政府の間で内戦が行われ、現在停戦中。国連の停戦監視活動(UNMIN)を受けている。
経済的には後発開発途上国である。農業を主たる産業とする。ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。
北を中華人民共和国のチベット自治区に、西をインドのウッタラーカンド州に、南をウッタル・プラデーシュ州とビハール州に、東をシッキム州と西ベンガル州に接する。内陸国である。
国境の長さは合計2926km、うち中国国境1236km、インド国境1690km。
中国国境地帯にはサガルマタ(英国呼称エベレスト)を始めとする8000m級の高峰を含むヒマラヤ山脈が存在する。そのため高山気候となっている。一方、インドとの国境地帯は「タライ」「テライ」または「マデス」といわれる平原地帯で、肥沃である。その中間には丘陵地帯が広がる。最高所はエベレストで標高8850メートル。最低所は標高70メートルである。
日経225は140,800km2。本州を除いた日本(北海道+九州+四国)にほぼ等しい。 データはすべてCIA World Factbook-Nepalより
マデシとは、タライともいわれるインド国境地帯に東西に細長く広がる肥沃な平原地帯(マデス)に住む人々のことである。現在の行政区画にはない。この細長い地域は文化的に北インドの影響が強く、丘陵地帯に住むネパール人の主流派パルバテ・ヒンドゥーから差別を受けてきた。このため、近年、「マデシ人権フォーラム」などの団体が中心になって、マデシ自治区を設け、高度な自治を実現するように、バンダ(ゼネラル・ストライキ)・チャッカジャム(交通妨害)などの激しい抗議活動を行ってきた。2008年の制憲議会選挙ではマデシ系のいくつかの政党が目覚しい議席数を獲得している。
2008年の初代大統領、副大統領選挙では、マデシ人権フォーラムがキャスティング・ボートを握り、副大統領はフォーラムから、大統領はマデシ出身のネパール会議派から選出された。
副大統領のパラマーナンダ・ジャーは就任式でマデシの共通言語としてヒンディー語(インドの言語)で宣誓を行い、マデシ以外のネパール人の怒りをかった。学生デモではジャーの人形を燃やしたり、「ジャーはインドのエージェント」というスローガンが現れたりした。ついにはジャーの自宅に爆弾が投げ込まれるテロ行為にまでエスカレートした。
CFD、マデシ問題は不安定な政局と絡んで複雑化しそうな情勢である。
ネパールの中心、カトマンズ盆地には旧石器時代から人が住んでいたことが明らかになっている。ドゥマカールの遺跡で発見された木具を放射性同位元素で測定した結果、紀元前2万7400年ごろのものと推定された。また、タライなど旧インド文化圏の各地でも旧石器時代の遺物が発見されている[7]。
伝説では、カトマンズ盆地は太古の昔湖だった。スワヤンブー寺院を参詣しに来たマンジュシュリ(文殊菩薩)が湖を囲む山を剣で切り開き、湖水を流しだし人が住めるようにしたという[8]。
また「ネ」(ne)という名の牟尼(聖者)が、最初にこの地を「統治」(pal)したので、「ネパール」(nepal)の名が付けられたという伝説もある[9]。その他、ネパールの起源に関する伝説は数多く存在する。
ネパールの古い歴史については「バンシャバリ」といわれる王朝王統譜が5種類伝えられ、「ゴーパーラ王朝」「マヒシャパーラー王朝」「キラータ王朝」があったとされるが、信憑性は低い[10]。
紀元前6世紀 - 現在ネパール領(インド領説あり)のカピラヴァストゥ共和国の統治者の子釈尊は現在の南ネパールのルンビニに生まれ、北インドに教えを広めた。これらの地域は当時はインド文化圏に含まれていた。
紀元前3世紀 - インドのアショーカ王がブッダ生誕の地である南ネパールに巡礼を行い、仏塔を建立した。
4世紀 - インド・アーリヤ語派の王族によるネパーラー王国リッチャヴィ王朝が成立した。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。
9世紀 - デーヴァ朝が興る。
13世紀? - マッラ朝が統治した。ネワール文化が栄える。
1450年ごろ - マッラ朝、バクタプルからカトマンズ王国独立。
1619年までにマッラ朝、パタン王国、カトマンズ王国から独立、三王国並立時代となる。
[11]
1769年 - 第10代ゴルカ王、プリトゥビ・ナラヤンがネパールを統一し、シャハ王朝を作る。
1814年 - 1816年 ネパール・イギリス戦争(グルカ戦争)
イギリス東インド会社との戦争の結果、善戦したが敗北。スゴウリ講和条約により、西はマハカリ河以西、東はメチ河以東、および全タライ地方を放棄する代わりに、イギリスから毎年20万ルピーの支払いを受けることになった。(ただし、講和条約締結の9か月後にはイギリスは20万ルピーの支払いをやめて、タライの大部分をネパールに返還し、ほぼ現在の国境ラインに落ち着いた)このほか条約にネパール兵がイギリス軍傭兵に志願できるという条項を加えた。なおイギリスはネパールのことをグルカ(Gurkha=ゴルカ)と呼んでいたので、ネパール人傭兵はグルカ兵(ゴルカ兵)と呼ばれるようになった。これが現在まで続き、ネパールは英印両国に毎年グルカ兵を提供している。
1846年 - 宮廷内の虐殺事件を機にジャンガ・バハドゥール・ラナが宰相となる。以後、宰相はラナ家の世襲となり、1951年まで シャハ王家は傀儡となる。
1854年 - ジャンガ・バハドゥール、近代的な大法典ムルキー・アインを公布。
1947年 - ネパール国民会議派(現在のネパール会議派の前身)結成。
1949年 - ネパール共産党結成。
1951年 - トリブバン国王亡命先のインドより帰国。ラナ家の支配終わる。立憲君主制を宣言。
1953年 - エドマンド・ヒラリー、テンジン・ノルゲイ、エベレスト初登頂。
1955年 - マヘンドラ国王即位。
1956年 - 日本国との外交関係を樹立。
1959年 - 初の総選挙。ネパール会議派・B.P.コイララが政権をとる。封建的諸制度の改革を急速に進め、国王との間に溝ができる。
1960年 - マヘンドラ国王がクーデターにより議会を解散。政治活動を禁止。全閣僚を逮捕。
1962年 - 新憲法制定。政党の禁止、国王に有利な複雑な間接民主主義「パンチャヤット制」、ヒンドゥー教の実質国教化など。
1972年 - ビレンドラ国王即位。
1980年 - パンチャヤット制の是非を問う国民投票。僅差で存続決まる。
1990年
2月18日、パンチャヤット制廃止、複数政党制復活を求めて民主化運動(ジャナ・アンドラン)起こる。ネパール会議派と共産系7政党が共闘。
4月8日ビレンドラ国王、政党党首とテレビ出演。複数政党制導入を約束。
4月16日国王、パンチャヤット制の廃止を宣言。
4月19日国王、ネパール会議派のクリシュナ・プラサド・バッタライを首相に指名。
11月9日、国民主権を謳った新憲法制定(1990年憲法)。